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アルフレッド・マーシャルと『経済学原理』

大変興味があります。
アルフレッド・マーシャルと『経済学原理』のまじめな話。実は知らないことばっかりでした。

マーシャルは、1842年、ロンドンのBermondseyで生まれた。ロンドン郊外のClaphamで成長し、Merchant Taylor's School で教育を受け、そこで数学に対する素質を現した。彼の父は息子であるアルフレッドが聖職者になることを望んでいたが、彼は数学研究を志し、ケンブリッジ大学への合格が、彼に学問の道を取らせた。彼は1868年にモラルサイエンス担当の講師に任命された。彼は経済学の数学的厳密さについて改善を行い、経済学をより科学的な職業にすることを望んだ。1870年代に、彼は国際貿易と保護主義の問題点に関するいくつかの小冊子を書いた。1879年には、これらの著作の多くが『外国貿易の純粋理論: 国内価値の純粋理論』("The Pure Theory of Foreign Trade: The Pure Theory of Domestic Values")と題された著作の中にまとめられた。同年、『産業経済学』("The Economics of Industry")を妻のMary Paley Marshallと共に出版した。

マーシャルはケンブリッジに創設された女性向けカレッジにおいてMary Paleyに経済学を講義した。二人は1877年に結婚したが、フェローの独身規定に従うため、彼はケンブリッジを去ることを強いられた。彼はブリストルに新設されたUniversity Collegeの校長となり、再び経済学の講義を行った。彼は、妻が執筆を引き受けた『産業経済学』を完成させ、それまで支配的であったミルの『経済学原理』に代わる地位を得、毎年のごとく増刷された。その単純な形式は洗練された理論的基礎に立脚していた。マーシャルはこの著作によって大きな名声を得、1882年にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが死去すると、彼の時代において英国を代表する経済学者となった。

マーシャルはヘンリー・フォーセットが死去すると、1884年12月にケンブリッジ大学の経済学教授に選出され翌年の1月にケンブリッジへ戻り、2月には教授就任講演をおこなった。 ケンブリッジでは、経済学のための新しい学科の創設に努力し、1903年にようやく実現した。この時まで、経済学は歴史と道徳科学の学士課程の下で教えられており、経済学に精力的で専門化された学生達がマーシャルが望むようには育ちにくかった。

マーシャルは1881年、彼の畢生の著作、『経済学原理』の著作に取り掛かり、それからの10年の多くをこの著作の完成のために費やした。その著作についての計画は徐々に拡張され、経済学の全体系を含む別の2巻本として公刊されることになる。第1巻は1890年に出版され、世界的な喝采を受けて、彼の時代における主要な経済学者の1人としての地位を確立した。第2巻では外国貿易、貨幣、貿易変動、課税、および集産主義に取り組むことになっていたが、ついに全く出版されることはなかったが、後述のような2巻が公刊される。

それからの20年以上、彼は『経済学原理』の第2巻の完成のために働いた。しかし彼は細部に対しても妥協なく注意をはらう完全主義的性格が災いし、その著作はついに完成することがなかった。多くの他のより小さな著作(例えば、1890年代の大蔵大臣のための貿易政策に関するメモなど)が、同じ理由によって不完全のままに残された。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月05日 18:23に投稿されたエントリーのページです。

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